常陸國總社宮

常陸国総社宮について|総社に詣でるは、数多の社に詣でるが如し。 「常陸名所図屏風」個人蔵(奥州市武家住宅資料館寄託)

国府と総社の物語

約1300年前の7世紀、現在の茨城県は常陸国と呼ばれていました。広大で海山の幸に恵まれたこの国は全六十余国のうち最上の「大国」とされ、常世の国とも称される憧れの聖地でした。

常陸国の中心地である国府があった場所が旧茨城郡、現在の石岡市です。茨城の県名はここに由来します。国府の長官である国司が執務した国衙跡の遺跡は近年の大規模発掘に伴い国指定史跡に登録されました。

国衙の南側にかつて倭武天皇(ヤマトタケルノミコト)が腰掛けたと伝わる「神石」があります。日本百名山の一つ「筑波山」、日本第二の湖「霞ヶ浦」の悠々たる美景を同時に望めるこの場所に創建された「総社」が常陸国総社宮です。

総社とは、それぞれの律令国に鎮まる八百万の神々を国衙近くの一ヶ所に合祀した神社であり、全国で55社が確認されています。国司たちは総社を拝することで自らが治める国の数多の神々に祈りを捧げたのです。徳川光圀が『大日本史』編纂のために参照したと伝わる社宝「総社文書」は連綿と続く当宮の歴史を今に伝えています。

長大な歴史の波に翻弄され祭祀を中断せざるを得なかった総社もある中で、当宮は創建以来絶えることなく「国府の神祭り」を続けて参りました。その現在の形が最大の祭典である9月の例大祭です。地域を挙げて祝われるため「石岡のおまつり」とも呼ばれ、全国から数十万人もの参拝者が訪れます。

境内最古の建造物である本殿は平成28年に大規模修復を完遂し、人々の崇敬を益々集めています。

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常陸国の神々

常陸国総社宮は常陸国の神々をお祀りしています。国学者・本居宣長が主著『古事記伝』に述べるように「神」とは海川山野に宿る霊など、人間には理解しがたい力を持つあらゆる存在を指します。常陸国の神々とは『常陸国風土記』に記された常陸国の豊かなる自然そのものと言えるかもしれません。

常陸国府では当国一宮・鹿島神宮に対し現在まで続く「青屋祭」を営み、格別の崇敬を示してきたことが伺えます。また二宮・静神社、三宮・吉田神社を始め、当国の延喜式内二十八社との関係が示唆されます。

江戸時代に祭神の再考証が行われ、現在では特に以下の六柱の神々を称え、境内の十二末社には特に著名な神々を個別にお祀りしています。


伊邪那岐命 いざなぎのみこと

日本の結婚式を始めた霊峰の男神。

「古事記」「日本書紀」における創造神で、后神である伊邪那美命とともに「国生み」を行い、多くの子宝に恵まれました。神名の「イザナ」とは「誘う(いざなう)」に由来し、日本最初の結婚式である天之御柱での「神婚」に因むとされています。禊と祓の神としても知られ、筑紫の日向の小戸の阿波岐原での禊の際に至上神・天照大御神や須佐之男命が生まれました。常陸国内では筑波山神社の男体山に鎮座する筑波男大神と同神とされています。

御神徳|子宝、夫婦和合、心身清浄、健康長寿など

須佐之男命 すさのおのみこと

高天原の暴れん坊が、厄を祓って病を退ける。

伊邪那岐命の禊で生まれ、天照大御神、月読神とともに三貴子と称されます。高天原から地上に降り立ち、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治。その際に大蛇の尾の中から見つかった草薙剣(クサナギノツルギ)は後に倭武天皇(ヤマトタケルノミコト)に授けられます。6月30日の夏越大祓は須佐之男命と関係が深く、疫病退散の神としても知られます。石岡市内中町に鎮座し、昭和9年に当宮に合祀された天王社(祇園社、八坂神社)の御祭神でもあり、7月の祇園祭では神輿が渡御します。

御神徳|厄災消除、無病息災、延命長寿、心願成就

邇邇藝命 ににぎのみこと

金色の稲穂をもたらす五穀豊穣の神さま。

天照大御神の孫神であり、高天原から地上を統治すべく降り立ちました。これを「天孫降臨」と言います。降臨の際に天照大御神から「斎庭稲穂の神勅」を受け、神々の食物である稲を地上にもたらしたことでも知られています。「ニニギ」とは「饒々しい(にぎにぎしい)」の意とされ、稲穂が豊饒に実る様を称えた呼び名と考えられます。当宮では2月21日の祈年祭、5月の御田植祭、12月6日の新嘗祭を三大農耕際と位置づけ、五穀豊穣の祈りと感謝を捧げています。

御神徳|家内安全、五穀豊穣、富貴栄達、安産、子宝

大国主神 おおくにぬしのかみ

神様が縁を結ぶ、万民豊楽の暮らし。

国土の旧称「葦原中国」の主。大己貴命(オオナムチノミコト)と同神ともされ、数多くの異名を持つ神様で、少彦名命とともに国土を開拓しました。『古事記』には鰐に皮を剥がされた因幡の白兎の傷を癒して助ける有名な神話が描かれています。高天原の使者・鹿島神宮の武甕槌大神に対して「国譲り」を行い、以来幽界に隠れて出雲大社に祀られました。常陸国内では延喜式内二十八社の一つ、旧真壁郡に鎮座する大国玉神社で祀られています。

御神徳|商売繁盛、厄災消除、縁結び、創傷平癒

大宮比賣命 おおみやひめのみこと

謎の女神の不思議な力で、苦悩も霧消。

大宮乃売(おおみやのめ)とも称され、『古語拾遺』では天太玉命の娘と記されています。宮殿に災害のないことを祈る祭祀「大殿祭」で祀られる三神の一柱としても知られますが、多くの謎に包まれています。当宮では本殿のほか、神仏習合の神・愛染明王と同神として境内の愛染神社にもお祀りしています。愛染は「藍染」に通じることからかつて市内に多く存在した染色業者の崇敬を得ました。天皇をはじめ人々の苦悩を和らげる力を持つとも信じられています。

御神徳|災害退散、苦悩退散、技芸上達、安産、縁結び

布瑠大神 ふるのおおかみ

剣に宿る癒しの力は、死者をも蘇らせる。

禊の聖地である奈良県の石上神宮の御祭神として知られ、禊や鎮魂と縁の深い神様。同神宮では武甕槌神の布都御魂剣に宿る霊威を布都御魂大神、饒速日命が授けた十種瑞宝の霊威を布留御魂大神、須佐之男命が大蛇を退治した十拳剣の霊威を布都斯魂大神として祀ります。常陸国では武甕槌神の本拠・鹿島神宮や、延喜式内社で布都御魂剣を神格化したとされる「普都大神(経津主神)」を祀る楯縫神社などとの関係が示唆されます。死者を蘇らせる「癒し」の力を有することで崇敬を集めています。

御神徳|病気平癒、心身堅固、武芸上達

常陸国諸神

常世の国に住まう様々な神々。

常世の国に住まう様々な神々。当宮が鎮座した時、常陸国には既に様々な神々が住んでいました。8世紀に編纂された『常陸国風土記』を紐解くと普都大神や夜刀神子社など多くの神々や神社の記述が見られます。国内の官社を記載した『延喜式神名帳』には7の大社、21の小社の名が見え、江戸時代の『常陸二十八社考』に詳述されています。総社とは国内すべての神々を祀る社。当宮では上記六柱を特に祭神名として表し、その他にも主要な神々を境内の十二末社にお祀りしています。

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社宝

当宮には古文書としては指定第一号となる茨城県有形文化財「総社文書」をはじめ様々な宝物が伝来します。通常は秘蔵しておりますが、祭典などに合わせて特別公開することもございます。公開時期については「お知らせ」で告知いたします。

常陸総社文書 茨城県指定文化財〈古文書〉

水戸黄門も御覧になった常陸国の記録。

治承3年(1179)から天保年間に至る中世及び近世の文書群。縦約40cm、横約50cmの絹表紙折本式書帖1冊に表装されています。安政2年(1855)森與惣兵衛ほか2名が表装を加え、箱に収めたもので、よく保存されています。特に最古の「常陸国惣社造営注文案」は神道学者・宮地直一氏の「総社に関する一考察」を始め数多くの論文に引用されるように全国の総社を歴史学的に考証する際に不可欠な史料です。その他にも源頼朝挙兵の前年の文書や永仁5年の徳政令に関する文書など、類例のない史料が多く、一説には水戸光圀公も「大日本史」編纂の際に参照したと伝わります。『茨城県史料』に収録され、現存する全文を読むことができます。

扁額三十六歌仙絵額 茨城県指定文化財〈絵画〉

室町時代に描かれた、和歌の達人たち。

室町時代の文亀2年(1502)に、常陸小川の城主薗部時定以下一族によって奉納されたもので、絵師成田小次郎の筆になります。三人の歌仙の描かれたもの(縦40.9cm、横100.3cm)が8面と二人の歌仙が描かれたもの(縦40.9cm、横67.8cm)の6面からなり、合計14面が現存し著色板絵で額装されています。描かれているのは小野小町や在原業平など36人の歌仙。描法、色調とも繊細かつ優雅な筆致で描かれており、全体に保存度も良好です。室町時代の在銘歌仙絵は全国的に遺品が少なく、中世絵画の作例として貴重な文化財です。

漆皮軍配〈伝太田道灌奉納〉 茨城県指定文化財〈工芸品〉

江戸城を築いた軍師の愛用品。

扇谷上杉氏の家宰を務めた太田道灌は戦国屈指の軍師とされる人物で、江戸城を築城したことでも有名です。当宮では「曙の露はおくかも神垣や榊葉白き夏の夜の月」との和歌を道灌が奉納したとも伝わります。この軍配はおそらく道灌の子孫であり、石岡市内・片野城主だった太田資正(三楽斎)の手を経て奉納されたものと思われます。総長48.9cm、最大幅19.1cm、柄幅2.6cmの鞣革製黒漆塗りで、表には朱漆で種子を大書しています。江戸時代の寛文8年(1668)、やはり道灌の子孫である遠州浜松城主初代・太田資宗が同二代資次とともに、先祖の軍配が伝来することに感動し寄進した箱に収められています。小形で長い柄の形式は古型を示し、室町期の工芸として価値の高い文化財です。

漆皮軍配〈伝佐竹義宣奉納〉 茨城県指定文化財〈工芸品〉

武将が遺した府中合戦の記憶。

戦国武将・佐竹義宣は天正18年(1590)12月に府中城を攻め、代々常陸国司を務めた大掾氏を滅ぼしました。その際、当宮は戦乱を避けて市内谷向の地に遷宮され、寛永4年に当地に再建されたと考えられています。この軍配はこの争乱の中で奉納されたものと伝わります。総長45.1cm、最大幅18.0cm、柄幅2.2cmの鞣革製金漆の軍配で安土桃山時代の作と推定されます。表には種子を中心に十二支を表し、裏は朱漆で塗られ佐竹氏の家紋である日輪を大書しています。漆の剥落もなく、保存度も良好です。安土桃山時代の工芸として価値の高い文化財です。

随身像

爛々たる瞳で見つめる、武装の二人。

御本殿とともに境内最古の建造物である随神門内に安置される神域の守り神。向かって右側が左大臣(総高138.5cm)、左側が右大臣(総高140.6cm)と呼ばれます。木造の寄木造り。延宝8年(1680)に京都の大仏師・寂幻によって作られ、18世紀に2度の彩色が施されました。風雨により劣化していましたが平成24年に修復士・飯泉太子宗氏により全面修理され、失われていた箇所も復元されました。通常の右大臣は壮年期、左大臣は長い顎鬚で老年期の姿が多いものの、当宮の像は双方ともに若々しい姿をしているのが特徴的です。胎内の墨書や木札から制作年代や修理の時期、関係者の名前などが分かるため歴史資料としての価値が高い文化財です。

白獅子

本殿を守る雌雄一対の神獣。

石岡の獅子頭は現在露祓町となっている土橋町に端を発します。宝暦年間(1715~64)に土橋町にいた渡り大工が同町の照光寺の板戸に描かれた獅子をみて、御礼を貼り合わせて作ったのが始まりだとされています。以降、近世の石岡で行われた祭礼に登場することになり、今や石岡市のシンボルとして市民に親しまれています。各町内の獅子は造り手によって色や表情などが異なり、祭り見物における一つの見どころと言えるでしょう。土橋町と仲之内町の獅子頭は茨城県、石岡市の文化財に指定されています。当宮には御扉の左右に本殿の守り神として雌雄一対の白獅子を安置しています。平成22年に時の氏子会長・篠塚一郎氏が製作。同副会長一同とともに奉納したものです。

天国之宝剣

悠久の記憶を秘める、国司の証。

16世紀に常陸大掾氏最後の当主・清幹の父・貞国が奉納した古代鉾の一部と伝わります。常陸大掾氏とは桓武天皇の曾孫・高望王に端を発する常陸平氏の嫡流で、維幹以降の子孫が代々常陸国の大掾職を世襲したことから呼ばれるようになった氏族。大掾とは国司の役職の1つで常陸国のような大国に設置されました。当宮最大の祭典である例大祭において、15年に一度神様を迎える年番町の最高責任者である祭典委員長に授与されます。祭典委員長は神幸祭、還幸祭の際にこの宝剣を捧持して大神輿に供奉します。

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社報・書誌情報

常陸国総社宮では毎年社報「榊葉」を発行し、当宮の年中行事や様々な事柄をお伝えしています。お読みになりたい方は社務所にお声かけいただくか、下記リンクより御覧下さい。定期購読をご希望の方も社務所に御一報下さい。また、各種メディアに掲載された当宮の情報や、神職が執筆した記事などについても同リンクから御覧いただけます。

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