令和5年の例大祭が終わって1カ月が経ちました。
改めて年番・若松町をはじめとした氏子各町の皆様と、ご協力いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。また、大変お疲れ様でした。
9月15日の例祭を含め、16、17,18日ともに晴天に恵まれ、非常に暑い祭りとなりました。そして、熱い祭りでもありました。
令和3年10月に例大祭の主要な神賑行事が「常陸國總社宮祭礼の獅子・山車・ささら行事」として石岡市の無形民俗文化財に指定され、その保護団体である「常陸國總社宮祭礼の獅子・山車・ささら行事保存会」(略称・保存会)が令和4年の12月に発足しました。文化財の保護継承と、これまでやや曖昧だった主催・運営を担う組織である保存会が担う初めての祭りとして、史上最多となる52万3千人もの観光客が訪れて下さったことは、まず成功だったと言えると思います。
今年は例大祭に先立つ6月から7月にかけて、国府地区公民館で「常陸國總社宮と例大祭」と題して4回に分けてお話をする機会がありました。かけもちしている城南地区公民館講座にも言えることですが、平日昼間の開催ということもあり、受講者はほとんど(というか全員)私よりも大先輩ばかり。中にはダブルスコアの年齢の方もおいでになりました。いくつになっても「学ぶ」意欲を持ち続ける、ということの大切さを私自身が再認識することが出来ました。
学びたい、知りたい、という思いは誰もが持つもので、かつとても尊いものだと思います。
私も研究者の端くれとして、そうした思いを大切にしてもいます。
ただ私が思うのは、最近は誰もが「正解」を求めすぎている、ということです。
たとえば知人、友人、家族との会話でこんなが疑問がふと出たとしましょう。
「〇〇の映画の主演の芸能人て誰だっけ?」
「〇〇の戦いは何年だっけ?」
「〇〇という虫はなんでこんな名前だろう?」
私はなるべく、スマホで検索しないように心がけています。このような単純な問いはwikipediaの記述でさえも容易に「正解」に辿りつくことが出来る。
でもそれでは面白くない、と私は思っています。
「〇〇の映画の主演は・・・△!(ということにしておこう)」と言って実は間違っていたり、
「自信はないけど〇〇の戦いは・・・△年!(のはず)」と言ってみて、実は正しかったり、
「〇〇という虫の名前は・・・△という伝説から来ている」と大ぼらを吹いて、当たらずとも遠からずだったり。
人間の考えは常に間違いの可能性を孕んでいて、それが時に「面白さ」や「可愛らしさ」や、そういったポジティブな感情を呼び起こしたりもするはずです。
もちろん、「鎌倉幕府は1192年」といったファクトの積み重ねは重要です。
しかし、歴史学者の年代把握と、歴史マニアの年代把握が決定的に異なるように、思考の基礎を持たない人が「ファクト」にこだわると、そこには偏狭な固執が生まれるような気がしてなりません。
私は今年の例大祭は100点だったと思っています。
でも私の得点感覚に「満点」意識は希薄です。
どこかしら間違いがあったかもしれない。もっと改善できるところはあったかもしれない。
でも氏子の皆さんが真剣に取り組んだ例大祭は、みなさん一人一人にとって100点だったと思いたい。
そして、誰かの「正解」が別の誰かの「不正解」だったこともあるでしょう。
でも祭りは神社の神様のために、神職、氏子、崇敬者、その他もろもろの人が関わって行われるものです。
神様の記念日のために、神様への感謝のために、自分は納得いかないことがあっても、その時点でのベストのために力を合わせるのが祭りだと私は思っています。
どこかの誰かから借りてきた考えを自分の考えであるかのように吹聴したり、
実は自分の考えなのに「皆がこう言っている」と多勢を装ったり、
いずれの場合も「不正解」への恐れが背後に見え隠れしています。
間違っていたっていい。それが当たり前です。
一人一人の「不正解」を持ち寄って、神様のための200点を目指す。
来年の例大祭も成功することを今から確信しています。
これからもよろしくお願いします。