今回は木比堤稲荷神社をご紹介します。
御祭神は宇迦魂命。創建年代は不明ですが、常陸大掾国香(平安中期800年代後半の武将)以来、領主・地頭の祈願所であり、街の鬼門除として社殿が築かれたと言われています。木比堤の地名は寛永、元禄のころから書物に記載があり、寛政年間(1789~1801)に記された『府中雑記』には「古記ニキヒサケトアリ、此ニ杉一本アリテ小社アリ、神体不分明ナリ、若ハ吉備ノ社トモ云シカ…」という記述があるのでこれが木比堤稲荷ではないかと思われます。
▽入口の鳥居。稲荷神社には珍しく神明鳥居です。参道右手には公園があります。
△大正14年10月 亀下文次 氏、亀下恒次 氏の御奉納
△石の鳥居の先には氏子崇敬者に奉納された木の鳥居が並んでいます。この鳥居は全て皮を剥いただけの丸木を使った素木鳥居でした。若干反りがあるようにも見えますが、木を加工していないので向かって右側の根本側が太くなっているようです。
△公園側に参道敷石記念碑が立っています。
△「参道花崗石 貳拾六間半 巾四尺 社前花崗岩 壹間半 巾四尺 外入口石段 二段」とあります。
昭和14年6月の奉納。奉納者は石岡繭絲市場、石岡銀行などの企業の他、ほとんどが石岡町の方のようです。これを見ると参道は近年まで土だったんですね。雨の日はぬかるんで参拝が大変だったのではないでしょうか。
△庭園及櫻樹 大正10年7月の奉納 一度倒れてしまったのでしょうか。「河内常●、野路吾●」のように奉納者のお名前が基礎に埋まっています。
△東茨城郡から100円の奉納、隣の短い石碑も50円奉納とあります。大正10年の50円と言えば小学校教師の初任給くらいの金額ですね。
△こちらは北千住のお店から100円の御奉納
△大正9年3月拝殿新築記念の碑。
△拝殿新築記念碑には裏表併せて60名もの奉名が刻まれています。
△ご神前にはたくさんの狐像が奉納されています。
△こちらは昭和4年の御奉納。横浜市の後は六傳と彫られているのでしょうか。現在の地名ではなさそうです。
△こちらは水戸市の方から奉納された天水桶。
△神社の左手には境内社として、もう一つ立派なお稲荷さんが祀られています。周囲を囲む玉垣は大正11年に皇孫殿下の御誕生を記念して奉納されました。
普段は無人の神社ですが、今回ご紹介しただけで市内、水戸市、東茨城郡、さらには北千住や横浜まで、関東の各地からご奉納があったことがわかります。境内には他にも狐像や杉苗二百本、杉苗千百本、地蔵などの奉納記念碑が至る所にあります。ずいぶん栄えていたみたいですね。
木比堤稲荷神社は大正12年頃までは東京の講中も参拝し、大社にも劣らない大変な賑わいだったそうです。明治から大正にかけては狐を助けて木比堤の森に放したところ、数回に渡ってお稲荷様の夢告があり、合計で小判が100枚以上も出てきたという伝説も残っています。残念ながら東京講中は関東大震災によって絶えてしまい、神社もこれに伴って衰微していったようです。
△木比堤稲荷神社の拝殿。瓦造りですね。先ほどの記念碑だと大正年間に拝殿が新築されたとありましたが、ずいぶん新しく見えます。
△拝殿の裏へまわってみると流造銅板葺きの本殿が見えてきました。瓦葺でトタンの近代的な造りの拝殿とは対照的ですね。
△近づいてみると本殿は木の表面が焼け、炭化しているようです。
△横から見ると炭になっているのは本殿の前面のみ、後ろの方は木が焼けていません。
大正に新築された拝殿は昭和59年5月29日未明の火事によって焼失してしまい、その後再建されたようです。
当時の新聞記事が残っていました▽
昭和時代、夜に拝殿が焼失し、本殿も類焼…どこかで聞いたような話ですよ…。石岡は火事が多いですね。
【ご報告】
さて、前回の日記でお知らせいたしました「茶~Chakai~」では多くの皆様にご参加いただき海老澤宗香先生のお点前をご覧いただきました。
△障子は普段真っ白ですが、少しでも演奏から注意を逸ら…いや、「ご来宮いただいた皆様の為に」菊の障子絵をデザインし、お茶会の時間限定で模様替えをしました。
△猫混じってました。ふざけずにはいられない橋本。
さて、今週末11月18日は落語ユニット「いばらく」をお招きして落語をご披露いただきます。
どんなお話が聞けるかは当日のお楽しみ。
ご参加をご希望の方は0299‐22‐2233常陸國總社宮まで!