常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

14 青木稲荷神社 火伏せの稲荷

總社宮では節分を過ぎると兼務社の初午祭で大忙しです。

初午祭とは伏見稲荷神社のご祭神 宇迦御霊神が伊奈利山へ下りた日が初午であったことから全国の稲荷神社で行われるようになったお祭りで、もともと豊作祈願をしていたものが農業の神でもある稲荷信仰と結びついたのだそうです。

石岡市には旧市内だけでも10社ほどの稲荷神社がありますが、今回はその中から青木稲荷神社をご紹介致します。社の正式な名称は「正一位青木稲荷神社」、ご祭神は倉稲魂命です。

もともと大掾氏の治める府中石岡城の中にあったようですが、石岡城は天正18年に佐竹義宣に攻められ同年末に落城、荒廃した稲荷神社は明和8(1771)年ごろに城下の金丸町鈴の宮の東側のあたりに鎮座し、その後天明元(1781)年に再度遷座して宝沢院の境内に落ち着きました。宝沢院は文政年間(1818~1829)に廃寺となり、青木稲荷神社だけが残ったそうです。

▲こちらの鳥居は平成15年に建てられたもの。すぐ隣にある滝田整形外科によるご奉納です。青木稲荷神社は石岡市教育委員会が定める常陸大掾氏歴史コースの①に定められており、常陸大掾氏平国香が屋敷の中に勧請したと言われています。

▲現在の社殿は弘化2(1845)年に再建されたものです。

全国には「初午が早い年は火事が多い」という俗信がありますが、石岡にも同じような言い伝えがあります。実際、石岡の大火は初午の日が多いようで、明治3年2月10日に長峰寺から出火し青木町を含む500余戸が類焼した火事も「丙午」で初午の日でした。この火事では青木稲荷神社の周囲も焼野原となっていますが、青木稲荷神社は火災を免れ江戸時代の社殿が残っています。再度火事があった時も同じように火難を逃れたため、この社は「火伏せの稲荷」とも呼ばれています。

▲拝殿の扁額 左下にお名前があります。奉納者は澤井武さんのようです。

▲こちらの幟は平成28年に複製されたものですが、平成5年に奉納された幟がもとになっています。

▲拝殿の中は祭りの時の記念写真の他、かつての扁額や總社宮例大祭の年番感謝状などが飾られています。右端の白狐に乗る天女の絵は稲荷信仰と習合したインドの神、荼枳尼天を描いたものです。この絵を眺めていたところ、氏子さんが「近所に住む画家の”まおか”さんが奉納してくださったんだよ」と教えてくださいました。

▲平成5年の青木稲荷神社改修記念の時の写真。この写真だと鳥居は木製の中山鳥居のように見えます。中央の奉納と書かれたお札にはうっすらと滝田…と書いてあるように見えます

▲こちらはさらに昔の写真。いつの物かはわかりませんが、この写真では神明鳥居のように見えます。この鳥居の御奉納は「青木安久」さんのようです。

▲この社の神楽太鼓の台は牡丹獅子がモチーフになっています。後ろを振り返る獅子の前足と尾のあたりに牡丹の花が見えています。

▲初午祭の日には境内に入りきらないほどの氏子さんが集まります。

▲後日、扉が閉められた普段の社殿の様子を撮影するため再び社にお参りしました。

▲拝殿には油揚げがお供えされており、周辺住民からの信仰の篤さを感じました。

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