常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

13 田木谷香取神社 初詣してきました

1月21日、遅ればせながら初詣をしました。(元旦から奉仕しているのに初詣であってるんでしょうか?)

参拝したのは田木谷香取神社。ご祭神は経津主命。

地図の通り、田木谷香取神社は常陸國總社宮から最も離れた兼務社です。

常陸國總社宮が所蔵する「総社文書」と呼ばれる資料の中に『新治郡田木野谷村検地帳』(慶長7年)というものがあります。もともと田木谷に常陸國總社宮の所領の飛び地があったため、この神社を常陸國總社宮が兼務するようになったのではないかと思われます。

▲一の鳥居は神明鳥居。石碑には「村社香取神社」の文字。村社とは明治時代に新しく定められた社格の一つで村の鎮守の社などが列格されていました。この「近代社格制度」は、第二次世界大戦後に廃止されたので「旧社格」とも呼ばれています。

▲太い木の根元には道祖神をまつる石碑があります。正面のものは「寛政□年4月吉日」と書かれているようです。字が薄くなってしまって定かではありません。

▲右奥の三角形の道祖神の石碑には小沼氏の名が刻まれています。

▲一の鳥居をくぐったすぐ左手には猿田彦を祀る石碑があります。こちらは昭和61年に作られたもの。新しいので字がはっきりしています。

▲参道がとても長いので一の鳥居から奥が見えません。300m近くあるのではないかと思います。参道の両側に杉の木が並んでいますが、木の成長によって参道がどんどん狭くなっているようです。

▲一の鳥居と二の鳥居の間、拝殿に向かって右側に杉並木が途切れる場所があります。この道を進むと古墳がある模様。

▲古墳の一部。参道の両側は起伏が多いのでどれが古墳なのかわかりにくいかもしれません。

▲古墳の頂上には祠があります。この古墳は「香取台稲荷古墳」というそうです。

▲参道を進むと狛犬と二の鳥居が見えてきます。

▲鳥居の足を見ると昭和11年に小沼治之助という人物によって奉納されたことがわかります。参道入口の道祖神の石碑にも「小沼氏」とありましが、同じ一族の方でしょうか。

▲二の鳥居の外側には狛犬。

▲狛犬の台座には「昭和十五年 区長氏子惣代 小沼治之助」と書かれています。小沼さんの正体は氏子総代さんでした。

▲さらに進んで明神鳥居が出てきます。ようやく社殿が見えてきました。この鳥居の両足にも奉納年月日が書いてあるようですが、薄くなってしまっていてよくわかりませんでした。左足は「巳□中森吉…」と読めるので、おそらく巳年に中森さんが奉納したということではないかと思われます。

▲拝殿はトタン葺き。

▲お祭りの際には赤い引き戸が開けられ、畳表を敷いた拝殿に祭壇が組まれます。この時は神前側の扉も開かれるので正面から本殿を拝むことができます。

▲御本殿や玉垣はコンクリート製。実は田木谷香取神社は明治4年8月12日の火災によって全てを焼失しているため建物自体は新しいのですが、日本武尊東征の折、桑原岳に布陣した際に建立されたとも伝わる古い神社です。近隣の武御雷命を祀る大宮神社の鎮座地が桑原岳であると考えられています。かつてこの辺りは「玉里村(たまりむら)」と呼ばれていましたが、これもヤマトタケルノミコトの伝説が関係しています。『常陸國風土記』によると倭武天皇(ヤマトタケルノスメラミコト、倭建命・日本武尊と同一視される)が水部に井戸を掘らせたところ、清水が豊かにたまったため「良くたまれる水かな」といって褒め、「たまり」と名づけられたとされています。

▲境内にある石碑。この石碑は明治29年の奉納です。私には何が書いてあるのかわかりません!でも最後のお名前のところ、「小沼」って書いてありません?なんだか全部「小沼」に見えてきた…。

▲境内社 おそらく須佐男命を祀る須賀神社であると思われます。

▲真ん中から折れてしまっていますがおそらくは三峯山を祀る石碑。

▲境内にある手水鉢。社紋である梅鉢紋が彫られています

▲手水鉢の裏をみてみると、昭和29年に遠藤夫妻が結婚30周年を記念して奉納したことがわかります。私は神社参拝をしていてこんなのを見るのが好きですね。

さて、ここで参拝の注意点を。

一の鳥居にたどり着くには国道355の「玉利辻」というバス停付近の道に入っていきます。地図上の⑬がそのバス停です。

この道は▼のような舗装されていない道路です。

 

▲まっすぐ進むと一の鳥居にたどり着きますが、道はここで行き止まり。その先は森になっています。うまく切り返してIターンするしかありません。(運転がひどい)私でも車をまわせたので大丈夫だとは思いますが、不安な方はバスでご参拝ください!

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