常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

地獄のカブトムシ

私が育った家は神社とほぼ隣接しているから、樹木がわりと身近にあった。
田舎とはいえ地方都市である石岡市の住宅地・商業地に近い神社だから、山奥のように鬱蒼としているわけではない。
でも夏休みにカブトムシが出て来るかも、と思わせるくらいの広葉樹は何本か生えている。

だが、子供時代の記憶を辿ると、見つけたカブトムシはいずれも死体ばかり。しかも頭だけとか、腹だけとか、五体満足な成虫に出会った記憶がない。積極的に採集に行ったわけでもないが、森が近くにありながらカブトムシに出会えないのは、何というか、ちょっと不公平な気がしたものだ。

だから近頃は子供とともにエサ的な液体を塗ったりしてみた。リベンジだ。
昨年は小さなクワガタは見つけたものの、大半は大量発生したナメクジたち。
おかげで彼らはナメクジ恐怖症になった。

でも今年は念願がかなった。生きているツガイのカブトムシを見つけたのだ。
発見時刻深夜0時。いました!ついでにノコギリクワガタも!

昆虫ゼリーを与えていつか卵を産むかしら、と夢想したのもつかの間。
彼らは夫婦で失踪してしまいました。恐らくケースの蓋が緩んでいたのだろう。
外出から戻ると忽然と消えていた。

繁殖に失敗したのも残念だが、ぼんやり思うのは「これで彼らも死んでしまったな」ということ。
バラバラ時代の記憶からか、虫かごから出た彼らを待っているのは「死」だけだと思ってしまう。

8月はお盆があって、終戦記念日があって、多くの人が身近な人の死や、かつて大量に失われた命について思う季節だ。
日本人の大部分が仏式で弔いの行事を営むから、お盆は仏教の行事だと私たちは知っている。

それに対して神社界には、お盆にご先祖の魂が戻ってくるのは本来は神道の考え方だ、と言い張る人がいる。確かに仏教の到来以前から、祖霊が戻ってくる信仰はこの列島にあったようだし、インドに誕生した原始仏教にはなかったはずの考え方だ。でもそれを神道の習俗だと言うのは牽強付会というか、後出しジャンケンというか何というか。とにかく日本という島嶼においてプリミティブに信じられていた祖霊に対する信仰が、仏教、神道双方から儀礼化されていった、ということなのだと思う。

だからというわけではないが最近、石田瑞麿の『地獄』(2020年、法蔵館)という本を読んだ。

人は死んだらどうなるのか。来世、あの世など言葉は様々だが死後の世界のことは古来、様々にイメージされてきた。
現代でも「地獄に堕ちる」などという言い回しは巷に溢れているから、常用の日本語と言えるだろう。
一方で「天に召される」的な天国という存在がある。
善人は天に召されて悪人は地獄に堕ちる。でもお盆には魂が戻ってくる・・・のか?

まず地獄という概念の淵源は古代インドの『リグ・ヴェーダ』にまで遡るという。
日本人にもおなじみの閻魔大王のルーツ、ヤーマ神はヴェーダ時代における死後の世界の主宰神。
火葬の後、魂だけが到達するとされたその場所は、地獄とは正反対の理想の楽土として観想されていたようだ。
一方それとは別に当時から知られていたのが奈落の語源となったNarakaという世界。
ヤマの天国に対応し、光のない暗黒の世界と考えられた。

ところが後期ヴェーダ時代になるとヤマに死後の裁判官的な性格が加わり、その主宰する世界も楽土から地獄的なイメージに変貌する。古代叙事詩『マハーバーラタ』の時代にはヤマは恐怖の死神としての性格が固定化したとされる。

初期仏教の時代になると『阿含経』の諸経典の中で地獄の思想が整備されていったことが分かる。八熱地獄とか八寒地獄とか、要は熱かったり寒かったりする辛いイメージが、仏教者の中で立ち現れていったわけだ。

このような地獄の観念が日本にやってきたのはいつか。
初出としては平安初期、823年頃成立した『日本霊異記』だと言われるようだが、実際にはもう少し遡ることが想定される。

ところで仏教の地獄は必ずしも「死」の世界とは言い切れない部分がある。
というのは人間は前世の業によって上から天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄という六種類の世界に「生まれ変わる」とされる。
つまり地獄で「生きている」。

さらに地獄と極楽は対のイメージで語られるが、六道の中に極楽はない。
六道はあくまで終りのない生まれ変わりの世界、つまり輪廻の中にあるが、極楽はその外側、悟りの世界である。
さらに極楽は阿弥陀仏が主宰する浄土なのであり、例えば観音さまが主宰する浄土は別で補陀落浄土と呼ばれる。

地獄・極楽の対立関係に一役買った書物が、極楽に往生する方法を説いた『往生要集』。
鮮明な地獄の描写によって、極楽と対応するイメージが固定化したと考えられる。

その後もちろん末法思想の影響で死後の世界への関心は益々高まり、浄土への思慕が高まるにつれて地獄のイメージはより、恐ろしいものになっていったようだ。そして阿弥陀さまの人気によって浄土といえば極楽、というマインドが醸成されていく。

石田氏の記述で特に印象に残っているのは地獄のイメージがあくまで「人間界を説くためのもの」だという点。
つまり地獄に堕ちて体験せねばならない苦しみは、全てその人が前世での罪業の報い。
だから地獄が恐ろしいのは、人間というものの恐ろしさを表しているという。

なるほど生物は皆死ぬが、戦争のような死に方は人間特有のもの。
しかも毎年8月になると追悼したり反省したり慰霊をしたりするけれど、世界中で起こっている戦争や紛争が、自分という人間と地続きであると思っている人は少ない。

カブトムシ夫婦はきっと恐ろしかったのだろう。同じ種族同士で今も殺し合う二足歩行の巨人たちに、透明なケースに押し込められていたのだから。それならいっそカラスやイヌに食われたり、樹液も舐めれず炎熱地獄で野垂れ死ぬことを選んだのだろう。

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