常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

リセットの季節

我が家は「古典に親しむ」ことをモットーとしているので、そのメディアにおける原点的なものをなるべく体験させるようにしている。

だから小学校低学年の我が子らが最近手にしているマンガは『幽遊白書』である。

そんな私の教育方針を知ってか知らずか、フィンランドから毎年やってくる赤服の白髭おじさんは一昨年、当家にファミコンをもたらした。
ファミコン……。
かつて一家に一台あったであろう白と赤の家庭用ゲーム機である。(思えばフィンランド爺さんと同じ配色だ)

フィンランドから来たうちのファミコンは「ニンテンドークラシック」というもの。
見た目は旧ファミコンと同じだが、大きさが一回り小さい。
昔と違うのはカセットを刺し直してソフトを交換するのでなく、30種類のソフトがインストールされていて、画面を操作して選択するという点。
そして機械音痴の我が家では電気屋さんに来てもらわないと接続できなかったが、現在はUSBで簡単にテレビに繋げるようになった。

長男はカービィが大好きなのだが、昨年30周年を迎え、今や3Dとなった名作も、彼の中では未だ2D。
学校でカービイの話が出来る友達がいるようだが、先方は恐らくWiiとかSwitchとかの3Dカービィのことを想定しているのだろう。

さて、現代社会用にマイナーチェンジされた「ニンテンドークラシック」だが、以前と変わらぬ機構がある。
そう、リセットボタンだ。

かちかちと入り切りする左側の電源ボタンと左右対称的に配され、押すと「全てがなかったこと」になり、スタート画面に戻る。
『スーパーマリオ』で、『ドラクエ』で、『ファイアーエムブレム』で、何度こいつを押し込んだことだろう。

私は思うのだが別にこんなボタンがなくても電源スイッチだけで事足りたのではないだろうか。
切る、入れる、の2アクションにはなるけれど、元に戻るという意味では同じこと。
事実、プレステにはリセットボタンはなかったではないか。(初代の話。ググってないですけど思い違いじゃないですよね?)

私は自他ともに認める牽強付会、我田引水的な人間なので、敢えて言いますが、リセットボタンとは極めて神道的な思想を反映していると思うのです。

以前、石上神宮で行われた神道行法研修会で万葉学者の上野誠先生が学生の和歌を紹介されていた。
「また振られ シャワー全開 今日もまた」(だったかな?)
この歌を紹介された先生は、日本人は古来「水」に浄化の力を見出してきたが、この学生も本能的に「水」によって自らの気持ちを浄化している、という趣旨の説明をされていた。なるほどな、と思う。そして古代人(そして現代人)にとっての「水」、学生の「シャワー」、さらにリセットボタンは「元に戻す」「水に流す」「なかったことにする」という思想において同一のものだというのが僕の考えだ。

仏教は違う。現世の業は来世へシフトする際に(良くも悪くも)清算されるが、在世中にリセットする術はないように思われる。

ミソギとハラエは神道における心身を浄化する方法である。
禊は水の浄化力によって罪や穢れを洗い流すもの。
祓も様々な神事的手法によって、罪、穢れを祓う。厄除けなどの際に「大麻(おおぬさ)」と呼ばれるサラサラした道具でお祓いを受けたことがある人もおられるだろう。

人は知らず知らずのうちに罪を犯し、穢れを身に纏う。
気に入らない他人に対してつい発してしまった陰口、耳障りな羽音にいきり立って潰した小虫の死骸、何かを探す老女を尻目に電車の時刻だからと立ち去る自分。

罪なことは分かっている。でも「つい」犯してしまう小さな罪。まとわりつく穢れの数々。
でも神道は弱い人間にやさしい部分がある。(厳しい部分もある)
禊、祓というリセットボタンが用意されているからだ。

無論、このボタンがあるからといって意図的に、悪意をもって悪事をなして良いわけはない。
でも過ちを犯しても元に戻れる、許されるという可能性は多くの弱い人間にとって救いとなるに違いない。

今月は半年に一回の、セミ・リセットの季節だ。
一年が半分過ぎた6月30日は「夏越大祓 茅の輪くぐり」の日。
氏子青年ひたみち会のメンバーが今年も立派な茅の輪を作ってくれた。

生命力あふれる緑の輪をくぐって、心身ともにリセットしよう。
そして9月に控える例大祭に向けて、心をシフトさせていこう。 

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