7月22・23日、小美玉市竹原神社でコロナ禍を経て4年ぶりに「アワアワ祗園」とも称される例大祭神輿渡御が行われました。
竹原神社は武甕槌命、素戔嗚尊を祀る神社です。創建年代不詳の鹿島神社に天保8年の6月牛頭天王を鎮斎、明治2年に八坂神社と改称後さらに同6年に両社を合併し竹原神社と改称しました。牛頭天皇を祀ることになった経緯はかつての記事をご覧ください。
竹原神社の例祭は2日間行われます。1日目の昼に拝殿での祭典が行われ、同日の夕方に境内から神輿が出御します。
△昼間の例祭に参列する氏子さんたち。
△行列の先頭を歩く高張提灯、堤、鎧
△総欅造りの神輿。重量は170㎏以上もあり、昭和61年に旧美野里町の指定有形文化財に指定されています。
△写真中央、竹原の神輿と獅子に挟まれているのは子供神輿。今回は出御していませんが、平成時代は共に巡行していました。
△上町の獅子。幌の中では子供たちがお囃子を演奏します。
△上町のささら。
△裏町のみろく
△花野井川での「御浜降り」。かつては実際に神輿を川につけていましたが、護岸工事が行われた現在は橋の上に向かって水を掛けるようになりました。
△神輿は川から上がると仮殿を目指します。巡幸路には麦わらが積まれ、待ち構えていた氏子たちが火を放ちます。川で冷えた御神体を温めるため、神輿は燃え盛る炎に突っ込んで行きます。
△巡幸を終え、年番町内に建てられた仮殿に鎮座する御神輿。燃える麦わらを浴びて担ぎ棒が煤けています。仮殿で一夜を過ごし2日目の夕方、神輿は仮殿を発ち、5つの氏子町内を巡り辻祈祷が行われます。各町は御神輿の接待場所を設け一行をもてなし、神輿は再び本殿へ着座します。
今年は、年番横町のもと4年ぶりにこの神輿渡御が行われましたが、完全に元の通りとはいきません。
例年の町内巡幸では、↓の地図の番号のように神社から仲町・裏町まで向かった後、竹原神社の前を過ぎて坂下町では⑥のあたりまで渡御しておりましたが、今年は⑥までは向かわず手前の✪までとなり、各町での休憩時もなるべく簡単なもので済ませることとなりました。巡幸路は半分ほどまで縮小され、これまで年番町内に建てられていた仮殿は負担軽減のため竹原神社境内に設けられました。年番町内で賄っていた神輿の担ぎ手も、竹原からよその地域へ移住した人も含め、氏子の中から広く募集しなければなりませんでした。
では竹原の例大祭は衰退してしまったのでしょうか?
今回私は2日目の巡行に参加しましたが、そのようには感じませんでした。
今年は初の試みとして交通規制により2日間とも巡幸路の大部分で車両を通行止めにしており、道路の端ではなく中央を神輿が渡御し、沿道には久しぶりの開催に多くの見物人が詰めかけました。
また、今年は竹原神社神輿会を結成。50名以上が入会、今年の神輿渡御にも30名以上が参加しました。
△神輿衆の背中が見慣れないな、と思ったら、神輿会結成を機に「竹原神社」の名前が入った新しいダボシャツを作成したようです。社名を背負って皆さんも士気が高まっています。
△自動車が来ないのをいいことに麦わらを盛大に蹴散らす参加者。
△こころなしかいつもより火柱が大きいような気さえします…
祭りの参加者の減少は感染症拡大によって突如発生したものではありません。まだ新型コロナウイルス感染症が出現する前、平成27年にも次のような記事が書かれています。
『「祭りに参加したことない」8割 ネット調査から – 日本経済新聞』
実際のところ、現代社会に於いて人口移動の増加や地域住民間の交流の減少によって密かに進行していた問題が、感染症拡大に伴う全国の祭りの延期・規模縮小というセンセーショナルな話題に乗って民衆の関心を集めたに過ぎません。
『お祭り復活元年 〜にっぽん再生への道~ – NHKスペシャル – NHK』では人々が感染症の拡大から立ち直ろうとする今、逆境をバネに全国の祭りで変革が起きていることが報じられました。
屋台が海に入るという行事を守るため、担ぎ手の半数以上を大都市からやって来たサテライトオフィスで働く若者に頼ることにした祭りもあります。女人禁制とされてきた800年の歴史を持つ神楽に海外駐在歴のある女性を迎え、インバウンド観光で活気を取り戻した地域もあります。
「先代から受け継いだものをそのまま次代に渡すのは生きた文化の継承とは言わない。その文化は化石のように死んでいる。文化の継承とは、受け取ったものの中から何を伝えていくのか、時代に即した形を探ることだ」とは学生時代に出羽三山の神職さんからいただいた言葉です。
何を切り捨てて何を守るのか。
竹原の祭りにも令和の風が吹き込んでいます。