今日は誉田別命を祀る谷向八幡神社を紹介します。
例祭はかつては旧暦9月15日に行われていましたが、現在は10月10日になっています。創建年代は不明ですが、江戸時代の創建といわれています。「奉 再建八幡宮」と記された棟札に寛政3(1791)年4月の日付が記されており、宝永6(1709)年の谷向水帳には八幡宮社免の記載があるそうなので、それ以前には鎮座していたと思われます。
▲本殿は流造木端葺。この社殿は昭和5年頃に改築されました。本殿は上屋に覆われています。
▲境内の稲荷社にお祭りされる宇迦魂命。
▲真ん中の石は阿弥陀如来線刻像。
▲近くに寄ってみました。線刻なので見え難いですが、目を凝らしてよくご覧ください。
石の上部に丸で囲まれた3つの梵字、そのすぐ下に雲に乗った如来の姿が彫られています。
この石は光明石とも呼ばれますが、その名前にはある伝説が関わっています。
谷向の百姓が村上方面に出向いた際、溝に掛けられた石橋で馬が躓き負傷した、百姓が馬に駆け寄ったところ、橋下に阿弥陀如来像が彫られた石があり、光を放っていた。百姓は八幡神社にこの石を収めた。
というものです。この石は弘法の爪書石という名称でも呼ばれており、この石の出土は付近に真言宗の寺跡があったことを示すのではないかともいわれています。
「谷向」という地名の由来は諸説ありますが、常陸国府跡に府中城を建てた大掾詮国が、城の安全と一族繁栄を願って城の最上階から、乾(北西)の方角を狙い放った矢の向かった先がこのあたりだったため「やむかい」と名付けられたという説や、大きな城下町では上棟の際、儀式で使用する矢の切っ先が向く方角である乾を守る風習があり、府中城の乾を守るための地域を「やむかい」と呼んだとする説もあります。また、境内の東側一帯は、佐竹氏の府中侵略から逃れて一時移転した常陸國總社宮の跡地であると考えられています。現在は穏やかな集落ですが、常陸國においては歴史的にも重要な役割を果たした場所であると思われます。