今年の夏はプールにはじまり、お墓参りの帰省や湖畔でキャンプ、遊園地に出かけ、庭先では春先に植えた苗から3玉の大きなスイカをはじめカボチャやトマトを収穫したり。
子どもたちと初めてといっていいほど夏らしい夏を過ごしました。これまでは9月の例大祭を前に夏は慌ただしく、祭礼が本来のかたちではなかったコロナ禍では対策に追われ、小さな子どもたちの夏を社務の犠牲にしてきてしまいました。
今年は社務を少しセーブして子どもたちの希望が叶う夏休みをがんばりました。そのツケが早くも回ってきて夏休み終盤の宿題みたいに、現在は社務に忙殺されていますが。
さて、前回の禰宜のブログを読んで、カブトムシのことについて真逆な感想を抱いていた私。
禰宜のブログ
逃げたカブトムシは生きられない。
そもそもは、息子お手製の蜜を夕方神社の木へ塗っておいた場所で、午前零時に夫・息子・娘でカブトムシのツガイとクワガタ2匹を捕獲。※私は寝ていました。
大きなカブトムシの捕獲は初めてで、ましてやツガイ。繁殖を試みながらお世話をしていた矢先、外出先から戻るとツガイの姿がありませんでした。
息子はというと心配をよそに、意外にもあまりショックを受けていない様子。飼育にちょっと飽きたのか、それとも最後に餌をやった本人なので蓋をちゃんと閉めなかった責任を感じているのか。
そこで禰宜のブログの文「これで彼らも死んでしまったな」
私は逃げた(いなくなっている)ことに気づいた瞬間に思ったのは「良かった。これで生きられる」でした。
だって、短い夏の儚い命。虫かごで一生を終えるなんて。うちの玄関先で命を終えるなんて。
でもそれ自体が都合のいい考えで、案外、外敵に襲われることなく昆虫ゼリーを食べて子孫を残すほうがラッキーと思っているかもしれない。蓋なんか閉まっていなくても逃げたいと思っていないのかもとも考えていたので、逃げたことが実はちょっと嬉しかったのです。
しかも2匹ともいない。どちらか一方が残っていなくて良かった。薄情にも相方を踏み台にして外に出た?いや、身重の君だけでも何とか生き延びてくれ!と逃がしたとか?と想像力を働かせてしまうところでした。
息子は「『しめしめ、人間が留守だ。お嬢さん、さあ一緒に逃げましょう。その前に最後の昆虫ゼリーをたっぷり食べてからね』とか言って逃げたんじゃない?」などと言っていました。小2の想像力とどっこいの私です。確かに数時間前に替えたばかりのゼリーはほぼ平らげられていました。
息子と私の想像力劇場を呆れて聞きながら、「うちの神社では多分生き延びられないよ。鳥に食べられてるよ」と夫の非情なお言葉。
例えそうでも、かごの中の昆虫ゼリーを食べて死ぬ生き方を自ら捨てたと思いたい。
来年の夏、またカブトムシを見つけたら、あのツガイの子供かもしれないと想像してしまうのはいうまでもありません。
昆虫展で見た怖いくらい大きいヘラクレスオオカブト。ミュージアムショップで売られていたのにびっくり!価格にも。