繁忙期の年末年始から節分祭の豆まき行事を終えて気持ちが緩むと、この時期に体調も崩しがち。自分のこと以外の様々な問題もつい抱え込んで悩んだり。そうなると妙に愁いを帯びてきて、情緒や風情ある明治・大正・昭和の文学に誘われる。(爽快な作品も好きだけれどね。)
「さよならだけが人生だ」
このフレーズが世代を超えて知られているのは、折に触れて歌詞や物語のセリフなどに使われるからだろう。
唐の詩人・于武陵(うぶりょう)の漢詩、勧酒(かんしゅ・さけをすすむ)を和訳した井伏鱒二による、最後の文「人生足別離」の和訳。直訳「人生って別ればかりだね」とはニュアンスがちょっと違うように思うけれど、残っていく言葉というのはそれ相応の魅力がある。
その前文「花発多風雨」の井伏和訳「花に嵐のたとへもあるぞ」は、これまた使い方の意味は違うけれど「月に叢雲花に風」を同時に思い出す。ネガティブともとれるこの言葉は美しい風情と甘美さがあり、むしろ割りきって腹を括れるような気持ちさせてくれる。
別れの悲しみとは、実は相手も同じくらいの想いがないと成り立たないように思う。恋人が、母子が、親友が、お互いに想いあう気持ちの深さが、どちらかの一方通行ではなく同じような場合に悲しみも深くなる。逆に言えば、相手もそれだけ自分を想っていてくれるとしたら、相手の辛さを想い、いまの寂しさや悲しみから立ち直らせてくれる心の支えにもなるかもしれない。
春は別れの季節。だからこそ目の前のこの時を大事にしたい。なんとなくクリスタル。いや、なんとなくセンチメンタル。
日本神話での別れはといえば、まずはイザナギ・イザナミの死別か。夫婦の愛憎からこの世とあの世の永遠の別れが描かれている。神生みをした夫婦の悲しく壮絶な別れから、穢れや死生観につながるとはなんてすごい振り幅だ。その時の穢れを浄めるための禊によって三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)が生まれるという大基礎があるわけだから何重にもすごい展開。その後の物語でもいくつかの別れがありながらも神の系譜が続いていく。
余談だが、息子にせがまれてギリシャ神話を読むことがあるのだが、時に破天荒な話や振る舞いなど、世界の神話には共通点があって面白い。子どもは神話という冒険物語に素直に心惹かれている様子。日本神話もギリシャ神話もインド神話も同時進行でどんどん吸収していくのがすごい。
さて、正月早々に我が家は書初めをしている。まだ3年目くらいだけど。
「新鮮」これが私の今年の字。考え方やものの見方という内面、衰えはじめた身体という外面、その両方に対して新鮮な空気に触れていきたい。パソコンの予測変換は仕事柄「神饌」がトップ。
家族は以下のとおり。
小2・長男「龍」 来年を先取り?画数が多くカッコイイ漢字が書けるようになった自慢。
年長・長女「りす」 うん。かわいいしかない。
44才・夫「米粉」 ・・・。昨年自分で買って使いきれなかった米粉への思い。