18歳の頃って何をしていたんだろう?
自主休講しすぎて早くも単位を数えていた高校時代から、果てしない自分探しの大学時代への過渡期。あんなことやこんなこともあったのだが、書けないことばかりである。いずれにせよ、18歳の頃の自分はまだ、何者でもなかった。
そこへ行くとアルフィー・テンプルマンは違う。イングランド・ベッドフォードシャーという、私と同じく(?)田舎育ちにも関わらず、18歳にして既にシンガーソングライターとして活躍している。
それほど驚くことではないのかもしれない。尾崎豊がデビューしたのは17歳だし、松任谷由実が作曲家としてデビューしたのもやはり17歳だった。アイドルグループの最年少といえば10代前半か、場合によっては10歳以下だってめずらしくないご時勢だ。
それでも18歳にして既に「何者か」になっているというのは称賛すべきことだと思う。テンプルマンは「田舎であまりやることがないから、曲作りに没頭できるんだ」と語っているけれど、田舎には田舎なりの忙しさというものがあることを私は知っている。
ギター収集家の父親、音楽好きの姉さんの影響で音楽にのめり込んだとはいえ、ドラム、ギター、キーボード、マンドリン、ハーモニカと10種類もの楽器を独学で習得できたのは「才能」と言う語では表しきれない努力があったからに違いない。彼はさらにジャンル横断的に様々な音楽を吸収して、自分だけの音楽を作るようになった。15歳でリリースしたデビューEP『Like an Animal』が高い評価を得たのは、きっと必然だったのだろう。
そんな彼がつい先ごろミニアルバムをリリースした。『Forever Isn’t Long Enough』。
いわゆる「A面」は4曲目の「Wait, I lied」なのだが、私の好みは5曲目の「Everybody’s Gonna Love Somebody」である。
テンプルマンの楽曲を聞いていると、最新のサウンドであるようにも聞こえるし、どことなく懐かしいような気もする。自分の心の琴線を観察すると、どうもキーボードの「感じ」に反応しているようだ。それもそのはず、このアルバム、70~80年代の日本のいわゆるシティ・ポップのサウンドを、最新のUKサウンドと融合させているのだ。
古巣の雑誌『Pen』ではつい4月1日号で『大瀧詠一に恋をして』と題した特集を組んでいた。正直、「大瀧詠一ねえ・・・」と思っていたのだが、中身を見てみると、これはシティ・ポップの特集なのだと分かった。そうなると話は違ってくる。
78年生まれの自分にとって、いわゆるシティ・ポップは生まれた頃から幼少期にかけて流れていた音楽だ。つまり言葉もしゃべれないうちから脳内に刷り込まれていた可能性のある音楽である。事実、多少記憶がある頃を思い起こしてみれば、母親のクルマの中ではよく松任谷由実の音楽が流れていて、そのいくつかは今は自分でダウンロードしたものを聞いていたりする。
竹内まりやというと、どうしても『駅』のイメージが強すぎる。つまり名前とともに火サス的断崖絶壁が自動的にフラッシュバックするので、シティな都会感とは結び付きづらい。が、確かに84年の『プラスティック・ラブ』を聞けばシティ・ポップ以外の何物でもない。と、YouTubeで同曲を聞いてみたらコメントしているのが異国の皆様ばかりでないか!噂には聞いていたが昨今、70~80’sのJ-シティ・ポップが海外で注目を浴びているというのは本当のようだ。
翻って自分のプレイリストを見てみると、最近聞いているアーティストの中には、そこはかとなくシティ・ポップの佇まいがあるような気がする。TENDREしかり、Yonawoしかり、Sirupしかり。そしてデビュー時から聴いているキリンジなんかは、やはりシティ・ポップの継承者だと思う。
何かを「懐かしい」などと感じるのは、もう若さが「あちら側」に遠のいてしまった証左だと思う。でも18歳の英国産シティ・ポップに心が震える自分には、まだ何者でもなかった頃の心意気が残っているようにも思うのだ。