常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

鳥と獣に触発されて「東西の感覚」を考える。

現在、東京国立博物館で特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」が開かれている。

鳥獣戯画と言えば、擬人化された兎や蛙、猿といった動物たちがユーモラスに描かれた絵巻として知られる。

常陸國總社宮では6月1日から夏越大祓の「3種のキヨメ」として限定の御朱印を授与しているが、こちらにも蛙をあしらってみた。真似したわけではない。というか新しい御朱印の図案を職員で協議したところ、この日記でもおなじみのH権禰宜が突然(と私には思えた)この絵柄を示してみせたのだ。絵心があるなどという話は全く初耳だったので面食らったが、とてもかわいらしく描けているので即採用。参拝者にも好評のようである。

さて鳥獣戯画だが絵柄もさることながら私はその所蔵先に元々興味があった。京都・栂ノ尾の高山寺である。このお寺は鎌倉時代の僧・明恵上人が開山した名刹。作家・白州正子らが自然に囲まれた静謐な空間を称えたことでも知られている。

明恵上人は、実は私の研究にとても関係がある人物である。私は「日本人の天竺認識」を研究しているのだが、彼は「本気で天竺に行こうとした」稀有な例なのだ。今や飛行機に乗ってニューデリーかコルカタまで10~15時間、そこからお釈迦様が悟りを開いたブッダガヤまで電車か車で10時~15時間くらいだから(国内線を使えばもっと早いか)、せいぜい2~3日あれば仏教の聖地に到着する。しかし鎌倉時代にはそうはいかない。移動手段は徒歩か馬などの獣に乘るか、海はもちろん船で渡るしかない(しかも事故の確率が高い)。

実は明治時代になるまで、日本から天竺に行ったことのある人物は記録上は存在しない。みんな「天竺ってこんな感じだっぺな~」と夢想はしていても、「いっちょいったるか!」と一念発起したのは明恵上人と高丘親王くらいしかいないと言っていいだろう。僧侶たちは天竺に行かなくても、中国で最先端の仏教を学べたし、むしろ中国が仏教の聖地と化していた部分もあるので、天竺行きの必要性があまりなかったと言ってもいい。

しかし明恵上人はすごい。長安から天竺の魔訶陀国・王舎城まで八千三百三十三里十二丁。徒歩で歩くと仮に正月1日に出発すれば6月1日に到着するはず!という計算をしたのである。そしてそれが残っている。今回の特別展の前期で展示された「大唐天竺里程書」という直筆の覚書である。

明恵上人はただ計算しただけでなく、この書を終始持ち歩いていたらしい。「参らばや」(参詣したいな~)と書いているが、彼にとって天竺に行くことは本当に切実な願いだったのだろう。

googlemapで日本からインドの方角を見ると、大体「西南西」と言えばいいだろうか。地図を俯瞰するとおよそ左方向になる。しかし現在の世界地図や地理感覚に慣れてしまっている我々としては想像がつかないが、西=左という感覚はそれほど昔にまで遡るわけではない。畳の部屋で皆で俯瞰して見るということもあり、前近代の地図は必ずしも方角と、見る者の上下左右の感覚が一定していなかったのだ。

私はむしろ、前近代の前後感覚、というのは西=前という側面があったのではないかと考えている。それは現在大陸と日本列島との間に横たわる海を眼前に見据え、これを越えると中国があり、その先に天竺があるという感覚である。そうすると北は右となり、南は左となる。

でももっと遥かな昔に思いを馳せればどうだろう。アフリカ大陸に人類の祖先が生まれ、彼らは次第に東へ、東へと移動した。彼らにとっては前=東だっただろう。そこにはもしかしたら前=太陽のある方角、という生物の感覚が作用していたかもしれない。ちなみにヒンディー語やサンスクリット語で「前」と「東」は同じくपूर्व(poorv)と言う。太陽を拝する方角が前、という感覚があったからだそうだ。

然るに我々の祖先は東=前へと移動して、かつては陸続きだった日本列島へと移り住んだ。そこで直面したのは太平洋という名の越える事の不可能な(に見えた)大海。彼らはそこで振り向いた。自分たちが後にしてきた西=後側の故郷を。我々の祖先が育んだ天竺への憧憬の淵源は、もしかしたらこんなところにあるのかもしれない。

ところで常陸國總社宮の本殿・拝殿は西側を向いている。というと「?」という顔をする人がいる。確かに社殿は東や南を向いて建てられることが多い。東は太陽の方角。南は中国の「君子南面す」の故事であったり、仏教の影響もある。なのになぜ西?というわけだ。理由ははっきりしないのだが、古い形式の神社であればあるほど、社殿の向きは南や東に限らない。身近なところでは常陸国の一宮鹿島神宮の本殿は北向き。武の神である武甕槌神が、北方の蝦夷に睨みを利かせているのだという。

では何故当宮は西向きか。これまでにあった説は2つ。一つは律令国家の本拠である奈良の朝廷のほうを向いている、というもの。もう一つは常陸国の中心地において、筑波山と霞ヶ浦を左右に一望できる方角だから、というのもある。今回私は3つ目の説を加えよう。すなわち、人類の大部分にとって、日本は東の果ての地。さらに常陸国は大和朝廷が開拓した東の最前線だった。その中心たる常陸國總社宮にとっての西とは、すなわち「旅路の果てに振り向き、地の果てを後ろにした前方」だったのではないか。

鳥獣たちのことを考えていたら、こんなことに思い至った夏至の朝である。

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