常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

~最果ての日印交流~ 常陸国でインドを想う

先日岸田首相がインドを訪れ、当地のモディ首相と会談したニュースをご覧になった方も多いと思います。かくいう私はテレビでは見ていないのですが、キャスターはこんなフレーズを言っていませんでしたか?

「日印国交樹立70周年記念」と。

令和4年、2022年は1952年に日印平和条約が締結されて70年。そのほかパキスタンやバングラデシュなど南アジア各国との関係も軒並み周年を迎えるので、日本と南アジアの交流を記念する年として位置付けられている。(外務省の区分けではインドなどの「南アジア」は「南西アジア」と区分けされる)

実は私の研究分野は広い意味で「日印関係史」なので、今年はこのトピックに注目しています。外務省でも公式サイトや「外務省員・ミナミ・アジア子」なる公式SNSアカウントで情報を発信している。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sw/page24_001526.html

https://twitter.com/southasiako2022

日本・南西アジア交流イベント「書初め会」の様子。(外務省HPより)

日本とインドの交流の歴史を一番古くまで辿ろうとすると、仏教伝来まで遡ってしまう。中学生の頃だったか、確か「仏教が日本にあるとはゴサンヤ(538、誤さんや)」という若干意味不明の語呂合わせで年代を覚えたような気がする。実は伝来の年はまだ、はっきりとは確定しておらず、538年というのは一つの説。もう一つは552年説で、どちらかというと前者のほうが有利なのが現状です。

仏教はもちろん、インドで生まれたお釈迦様の教え。ただ、この時は百済の国から仏像とお経、僧侶がもたらされただけ。日本に初めて「インド文化」がもたらされた年である。一方、始めて日本にやってきた「インド人」と呼ばれるのが菩提僊那(704~760年)で、「ボーディセーナBodhisena」が本来の読みだが、「ぼだいせんな」と訓ずる人も多い。また、ニックネームである「婆羅門僧正」として知っている方もいるかもしれない。

うっかりしたことに司馬遼太郎が彼について書いていることを最近知った。名著『街道をゆく』の「奈良散歩」に収録されている「異国の人々」という章がそれである。司馬さんは彼を「センナ」として書いている。

五台山に出現した文殊菩薩に出会うためにはるばるインドから中国に来たセンナ。しかし「菩薩は既に日本に行った」という言葉を信じて渡日を決意する。その時ちょうど、難破した遣唐使使節団が渤海船で帰国する話を聞き、これに便乗することになった。

センナを難波の津で出迎えたのが、聖武天皇から良弁とともに東大寺の建立を命じられた行基である。センナと行基の邂逅は様々な物語で語られるが、両者は初対面なのに旧知の友のように語らったとされる。そしてセンナは現出した文殊菩薩とは行基のことだと知る、というストーリーである。

センナはその後、東大寺の大仏お披露目の一大イベントである開眼供養の「開眼師」に選ばれた。いわば「本場の先生」に落成式の執行をお願いしたということだろう。このほかにもセンナとともに来日した林邑(今のヴェトナムの一部)の僧・仏哲が「万秋楽」という舞楽を新作するなど、開眼供養は実に国際式豊かな催しだったことが想像される。

さて、翻って我が石岡には東大寺と関係の深い場所がある。国分寺である。聖武天皇は天平13年(741)に全国に国分寺(と国分尼寺)を建立する詔を出されたが、その総本山とでもいうべき存在が東大寺であった。そう考えると、国分寺とは我が国、東の最果て近い常陸国の人々が、インドや天竺を感じた場所だったとも言えるかもしれない。

ちなみに菩提僊那とともに帰国した遣唐使のエピソードについて、面白く脚色した物語が上野誠先生の『天平グレートジャーニー』(講談社、2012年)。是非読んでみて下さい。

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