常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

死ぬことで続いていく

「この神社は何年くらい続いているのですか?」

参拝者から時おり、投げかけられる言葉です。
歴史学的に言うと、常陸國總社宮の最古の記録は茨城県指定文化財になっている「常陸総社文書」のうち最古となる治承3年文書。
西暦1179年以降は確実に存在していたことが分かっている。
つまり短く見積もっても八百年は続いていることになります。

神社の歴史が長いということが分かると、
「そんなに長く変わらず続いているってスゴい!」
と言って下さる方がいます。
ただ、「長く」続いているのは事実だとしても「変わらず」続いていることばかりではありません。

神社の主役は神様ですが、そのお屋敷を切り盛りするのは我々神職という人間。
そして参拝者もまた人間です。
例えば荒れ放題の神社よりも、清浄に掃き清められた神社のほうが、人は「ありがたい」と感じるかもしれません。
また、折に触れた祭りや行事を行い、人々に御神徳をお分かちしている神社でなければ、人々の崇敬心は離れていくかもしれません。

つまり、現在も「続いて」いるのは、その時代ごとに神社を切り盛りした神職や、氏子、崇敬者が、「続ける」努力を怠らなかった結果なのだと思います。それは則ち、その時々に応じて「新しい」何かを生み出し続けてきたという風にも言えるのではないでしょうか。
ずっと変わらない存在だから、古くから続くことを連綿と行っている、という神社のイメージ。
それは間違いではありませんが、最も大切なこと、すなわち「神祭り」のために要不要を見極め、その時代に必要なことを新たに「始め続けて」きたからこそ、それぞれの神社は存続してきたのだと思います。

生物は必ず死を迎えます。先日読んだ『生物はなぜ死ぬのか』の著者である生物学者・小林武彦さんの言葉を借りれば、「死は生命の連続性を維持する原動力」なのだそうです。人間が死ぬのは、次世代に命を繋ぐため、と小林さんは論じています。
つまり個人の死によって、全体が生き続けることが出来る、ということなのかもしれません。

逆に約37兆個と言われるヒトの体細胞は約50回分裂すると死亡してしまい、4年間で一部を除いてほぼ全て入れ替わってしまうのだとか。それでもその人は別人にはならず、生き続けることになります。

神社が生き続けるため、先人はその時代には「死んでしまった」事象を捨て、新しい命を生み出してきたはずです。
だから現代の神社は「変わり続けること」によって「変わらない姿」を保持していかねばならないのだと考えています。

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