2月23日に石岡プラザホテルにおいて、例大祭の神賑行事が石岡市の無形民俗文化財に指定されたことを記念する式典が行われた。これまで石岡ばやしや土橋町の獅子頭、冨田町のささらなど、要素ごとの指定はあったが、全体としての指定は初めてである。申請者であり保護団体にもなった「例大祭文化財指定検討協議会」が平成28年に発足してから6年越しの達成である。御協力頂いた皆様には心から感謝申し上げたい。
http://sosyagu.jp/%e4%be%8b%e5%a4%a7%e7%a5%ad/1525.html
祭の文化財指定について話すと必ずと言って聞かれるのが「あれだけ盛大なのに文化財じゃなかったんですね」という言葉だ。
今回はこの点について、少し考えてみたいと思う。
そもそも無形民俗文化財は民俗学的に価値が認められたものが指定されるのであって、祭りの規模や盛大さ、観光客の動員数などは全く評価とは関係がない。だから国指定になっていても、規模としては小さかったり、いわゆる「地味な」ものが結構ある。文化庁では国指定文化財を網羅したデータベースを構築しているので、ご興味があればこちらをご覧下さい。
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/categorylist?register_id=302
全国には令和4年3月現在、320の国指定重要無形民俗文化財があり、そのうち70件が祭礼(信仰)である。すなわち祭礼という信仰が文化財としての評価の対象になっているのである。
小中学校の「生活」の授業で神社について「調べ学習」に来た子供たちにも話しているのだが、「祭」という文字は以下の3つの要素で成り立っている。
左上の「月」は肉を、右上の「又」はそれを供える手を、下の「示」は供え物を置く台や机を表す。神という目に見えぬ存在に対し、食べ物(肉)を供えるという行為こそが、祭という漢字に込められた意味である。そして日本語においては「まつり」は「まつる」からの変化であり、「たてまつる」「まつろう」などと語源を同じくすると考えられている。
つまり「祭」とは目に見えぬ存在に対する人間からの供儀や奉仕を意味すると言っていいだろう。
翻って外国語はどうだろう。フェスティバル(festival)の原型はラテン語のフェスタ(festa)。これは宗教的な休日を意味する。現在の日本語では「フェス」という言葉の流通によって、「イベント」と同義のように用いられているが、英語圏においてはfestivalといった場合、そこには宗教的な祭りも当然、含まれる。熱心な氏子さんの中には「祭とフェスティバルは違いますよね」と言って下さる方がいるが、「祭≠フェスティバル」だが、「祭≒festival」だと私は考えている。元来は日本の祭と同様、festivalも信仰として生まれたものだからだ。
もう一つ、カーニバルはどうだろう。こちらもカトリックの謝肉祭(カーニcarniとは肉のこと)に端を発する。リオのカーニバルのような盛大なイメージがあるが、こちらも信仰を基本とした行事であって、結果的に盛大になったものが多い。
フェスティバルにしても、カーニバルにしてもそもそもは信仰による祭りであったものが、その盛大さにあやかって「~フェスティバル」とか「~カーニバル」などという「名乗り」に利用されることになり、各種イベントの名称が乱立しているだろう。結果としてフェスティバル、カーニバルといえば、信仰の伴わない「単なるイベント」のようなイメージを持たれるようになっていると言える。
当宮の例大祭の神賑行事が文化財としての価値を得たのは、それが「観光イベント」ではなく信仰にもとづく「祈り」だからだ。
祭りの本質を見誤った者は「自分たちが楽しむだけでなく見る人が楽しめる祭りを目指すべき」などと言う。
彼らは祭りを行う者たちが「自分たちだけで楽しんでいる」と考える。
「祭る者=祈る者」が向いている方向に存在する「目に見えぬ存在」を度外視するためだ。
ある氏子さんがこう述べた。「観光客って神事を見に来てるんじゃないんですか?」
まさにその通りだと私は思う。
祭る者が神に背を向けて観光客の方だけを見れば、それはfestivalでなくフェスティバルになり下がり、文化財の価値などなくなるだろう。
観光の成功は目的でなく結果だ。
神を祭る者、神に祈る者の背中が美しいからこそ、その祭りは美しく、皆で共有すべき「宝」としての価値を持つのである。