常陸國總社宮

神職日記|4人が語る、神様と暮らす日々。

17 真家春日神社 神様たちの複雑な関係…

久しぶりに神社巡りをしてきました。前回の投稿を確認すると、最後に神社を紹介したのは昨年の10月下旬。ちょうど氏子青年ひたみち会の「縁~Ennichi~」の準備が始まった頃ですね。あれから半年が経ち、記念式典も終わってようやく生活のリズムが戻ってきています。まだまだひたみち会のお手伝いはしていますが、事務局は齋藤ぱいせんにお願いすることになりました🤭

さて、そんな私が今回参拝したのは真家春日神社。羽鳥駅の向こう側にある神社です。

ご祭神は天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売神。この4柱は全国の春日神社の総本社である奈良の春日大社に祀られる神々です。武甕槌命は常陸国一宮でもある鹿島神宮の御祭神ですが、春日大社創建時に勧請され、白鹿に乗って春日へ向かったと言われています。そこからまた常陸国へ勧請されてきたんですね。

真家の春日神社は正平2(1347)年11月に、宍戸安芸守源家秀の氏神として創祀されました。その後末裔の真家氏が代々お祭りをしています。

明治6(1873)年には↑の写真に「指定村社」とあるように、真家村と成井村の村社に列格されました。この社には子供が夜泣きするときはこの神社に小豆飯を献饌して祈願すると収まるという信仰があるようです。

△瓦屋根の拝殿は前面がトタン張りの雨戸が立てられていますが、このタイプはお祭りなど人が集まる時には雨戸を開け放ちます。中央にだけ透かしが入っているので中をのぞかせていただきます。

んー。暗くてよく見えない…。5本の幣束の向こうに光が見えます。向こう側も透かしが入っているんですね。拝殿の側面に回ってみましょう。

△本殿の覆い屋が幣殿とつながっています。光はここから入っていたんですね。こちらもちょっと失礼して隙間から拝観させていただきました。

△本殿自体は元和元(1615)年に真家氏によって再建されたもの。

流造で獅子、獏、龍など神獣の装飾が施されています。側面には三つ巴らしき紋が2つ入っています。

境内には鳥居と社名碑、石灯籠が2つ、そして3つの手水石があります。

ほとんどの物には文字などは刻まれておらず、2つの灯籠の裏面には何か書いてありましたが、拝殿向かって左の灯籠にかろうじて「願主」、右には「明治」か「昭和」のような年号らしきものが彫られているように見えるだけで、何が書いてあるのかはよくわかりませんでした。

△境内には須佐男命を祀る八坂神社と建御名方命を祀る諏訪神社が合祀されています。八坂神社は大正元(1912)年に合祀されました。『古事記』によると、(以下御神名は古事記に則る)建御名方神は「国譲り」の物語で葦原中國を天孫に譲ることに反発し、遣いとしてやってきた建御雷之男神に力比べを挑みます。しかし圧倒的な力の差に出雲から信濃まで敗走、建御雷之男神を恐れるあまり、自ら謹慎を申し出、命乞いをして国譲りを承諾します。

そして、この建御名方神は大国主神の息子で、大国主神は須佐之男命の子孫でもあり、その娘とも結婚していて、須佐之男命は天照大御神や月讀命の兄弟であり、伊邪那岐命が死んだ妻を追って黄泉の国へ行った後、禊をしたときにその鼻から生まれた神様で、建御雷之男神は妻の死の原因となった息子の迦具土神を伊邪那岐命が切り殺した時に生まれた神で…うーん…ちょっと複雑…日本神話に興味があっても挫折してしまう原因はこういうところにあると思うのです。いきなり古事記の原文や口語訳をそのまま読むのはハードルが高いという方は神社本庁のホームページ【 日本の神話 | 神社本庁 】に簡単にまとめられているので是非読んでみてください。

真家春日神社は常陸国一宮鹿島神宮から春日へ勧請された武甕槌命が再び常陸国へ勧請され、その境内にはかつて争った建御名方命がお祀りされているという、ちょっと複雑な神社なのでした。

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